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命を繋ぐ分かれ道 ④

last update Last Updated: 2025-05-23 12:49:29

 今は余計な衝突は避けるべきだ──そう判断したその瞬間だった。

「リノア、あれ見て!」

 エレナの囁きが、緊張に染まった空気を切り裂く。

彼女の視線の先──そこにいたのは。

「ヴィクター……!?」

 リノアの声が驚きと困惑で震えた。しかし、すぐに唇を固く結んだ。

 この場で彼の名前を呼ぶことが、どんな意味を持つのか。考えるより早く、本能が口を閉ざした。

 曇った空の下、不規則に動く影……

 クローヴ村の木工職人、ヴィクター

 村祭りの夜、森の異変に不安を駆られ、リノアに絡んで来た男。

 普段は村の工房で家具や農具を作り、木材の調達も村近くの森で済ませている。仕事柄、村の外に出ることは滅多にない。まして遠くの獣道に来る理由などはないはずだ。

 そんな彼が、なぜこの崩落現場の近くに現れたのか。

 リノアの背筋に冷たいものが走った。

 木々の隙間から、ヴィクターの姿がぼんやりと見える。

 使い込まれた麻の作業着、腰にぶら下げた革の袋。その中に木槌の柄らしきものが覗いている。

 手には、小さな木片とナイフ……

 リノアの目が見開かれた。

「本当だ。ヴィクターだ。どうしてここに……?」

 リノアの視線が一点で凍りつき、全身が硬直する。

 ヴィクターが村を出ているのは不自然だ。しかし、それ以上に問題なのは……。彼が今、人影たちと行動を共にしていることだ。

「分からない。少し様子を見よう」

 エレナは首を振って答えた。エレナは短剣の柄に手を置いたままヴィクターから目を離さないでいる。

 リノアとエレナは木々の陰に身を潜め、ヴィクターの動きを観察した。

 ヴィクターは一人ではない。背の低い、粗末なケープを着た男と連れ立っている。その男は周囲を警戒しながら、時折、ヴィクターに何かを囁いている。

 ヴィクターはナイフを手に木の根を軽く削り、木片に何かを記している。

「何をしているんだろう……」

 リノアの指が無意識のうちに硬く握られる。

 やがてヴィクターたちは獣道の分岐点で足を止めた。迷うことなく集落とは異なる道を選び、森の奥深くへと進んでいく。

「やっぱり、あの人たち集落には行かないみたいね」

 エレナが囁いた。

 ヴィクターの出現は偶然とは思えない。村の工房で木材を削る彼が、崩落のすぐ後にこの森に現れ、しかも人影たちと共に行動を取るなんて……

 逃してしまえば、森の異変の真相に
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  • 水鏡の星詠   密やかなる命の痕跡 ④

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